(仮称) 人、自然 学びの会
わたしたちの郷土、 |
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● わたしたちの計画についての議論を試みるページです。 ここで、わたしたちは、わたしたちの活動の流れというものについて考えていきたいと思っております。 ここ里山におりますと、あれもやりたい、これ もやりたい、ということになってきます。 それは、自然の成り行きなのだと思います。 都会、近代空間、機能的に区画された空間という縛りから、 開放されるからなんですね。一時的に。一時的にです。 一時的には、あれもやりたい、これもやりたい、あれもやれる、これもやれそう、となりましても、すぐさま、手が八本、十本と必要になってまいります。 それで、実際にやれることは、すごく萎んでしまうのですが、そのようにしないためにも、ここで、自らの活動の全体を概観しておいたほうが良いように思いま す。 そこで、わたしたちの農場の位置エネルギーといいますか、位置的に課せられた課題といいますか、そのようなものから少しずつ考えてみたいと思います。 まず、わたしたちは、最終的に何を目指しているのかを AboutUs で、次のように明確にしました 。 ど んなに経済的に 困窮した人でも、その志さえあれば、 この農場に寄宿し、農場作業をすることによって、学べる、 ・ 学べる内容は、農林業はもちろん、 当面の社会的ニーズに対応できる技術、 特に、エコ・イノベーション、食養、セラピーなど、 ・ そして、そのような、差し迫った技術の習得にとどまらず、 この社会の現在の構造を、深いところで把握し、 自立した個として、意見を述べ、地域の自治を担える「人」となる ことができるよう、助け合える場しての「学校」。 つまり、わたしたちは、この課題を実践することによって、この地域に若者を呼びいれ、その若者たちがさまざまに学び、実力を身につけることのできる 「場」を普段に作り出すことを以って、地域と社会に貢献出来るのだ、と考えております。 わたしたちは、地域 白州町、ひいては、北杜市にとって、まずは、CAFE のような存在に成れたら良いのではないのか。さまざまな人たちが、ちょっとのお洒落とお喋りと知見 とそして、安心、安全な食材を求めて立ち寄ってくださ る、そんな場所。そして、WWOOF を受け入れられるように、ワークショップ、つまり、わたしたちの学びの作風を実践しながら、諸施設を整備していく。 そこで、下図のような、さしあたって、三つの柱の循環でこのことを考えてみると、 .では、何故“エコビレッジ”なのかと言いますと、やはり、わたしたちは、現在の生活の仕方に、相当な行き詰まりを感じていて、生活の仕方そのものを見 直したい、というように無意識のうちに感じているからなのだと思います。ただ、このことがすぐさま表面化しないのは、やはりわたしたちは、今までの生活の 悪無限的循環にがんじがらめになっているからなんだと思います。わたしたちの周りには、既存のシステムしかいまだないからです。行き詰まり、なんていって いたら、生活できないですものね。 だったら、多少なりとも余裕のある者が、いわば、酔狂で新しい生活の仕方を模索してみよう、というのが、この企画、「エコビレッジづくり」なんだといえ ると思います。 だから、エコビレッジの定義とか、どうあるべきかということから始めるよりは、こんなことしてみたら、行き詰まり感が解消し、なんだか先の見晴らしが開 けてきたようだ、とか、そんな手さぐり的模索の積み重ねで、楽しみながらつくっていくのが良いのだろうと思っております。 また、AboutUs でも触れましたように、エコビレッジの構成要素のひとつとして建設予 定のストロベールハウスなどは、ダーチャとしての使用にも適うような柔軟性を持たせて あります。まあ、ここでは、ダーチャよりお洒落だということで、コロニーヘーブ仕立てでいきたいと思っておりますが。 次の柱とし て、「複合醗酵農法」の実践を据えようと思います。そうすると、里山生活で一番重要なものは、農とか林とかではないのか。だったら、何故、この、農とか林 とかが、最初に来ないのか、ということになるかと思います。 にもかかわらず、最初に、「エコビレッジづくり」の柱を据えたのは、構想すること、わたしたちのすること全てを常に構想しながら、個々の課題に取り組む ことが重要だと考えたからです。それで、「場」全体の構想を念頭に置かないとできないことを、まず、最初に据えることにしました。エコビレッジをどのよう なものとして構築していくのかを常に念頭に置く、そのような頭が必要だ、といいましょうか。わたしたちの活動のその全体を入れられる入れ物、容器を造りな がら事を進めていく、そのことが大切なのだと思いました。 さて、わたしたちの多くは、農も林も、素人に等しい存在です。と はいえ、素人の強みというものは、やはりあると思います。特に、現在のように、いわゆる 「慣行農法」といわれるものが、化学肥料、農薬漬けの、人にも自然にも過酷なものである現状にあって、素人だからこそ、挑戦できることは、多々あると思い ます。 そのひとつが、「複合醗酵農法」だと思います。微生物利用のこの農法は、不耕起、無施肥農法と相性も良く、大変な威力を発揮するものと期待しておりま す。また、この農法は、成功例は多々あるのものの、まだ、確定した跡付けといいましょうか、この農法の試行に際しての、まとまった記録といったものはまだな いのです。わたしたちがそのパイオニアになれたら、とひそかに思っております。 最後の柱には、「里山起業」を当てたいと思います。これは、一筋縄ではいかないことは明らかですが、わたしたちは、果敢に挑戦していきたいと考えており ます。これがないと、人は育たないし、ひいては、この社会を変えることはできないからです。とはいえ、大上段に振り被っても、肩に力が入るばかりで、何の 成果も期待できないでしょうから、まずは、気楽に始めたいと思います。 〔村づくり 〕でも、触れましたように、非電化工房・藤村靖之代表の「月三万円ビジネス」晶文社刊に掲げられているいくつかの事例について、試行的に実践していきたい と考えております。 また、この「里山起業」の志向におきましては、同じ地域で、斬新な取り組みをなさっている、わたしたちの先輩に当たる、さまざまな団体の皆様との協労 が是非とも必要であると考えております。 この「里山起業」のわたしたち的独自性といいましょうか、そのようなことについても、早くから一応の目安をつけておくということは大切なのではないのか と思います。 そこで、重要なことは、この時代をどのようなものとして捉えるのか、ということだと思います。ある方は、「時代の断層」と表現され、わたしたちはいま、 この、時代の断層を渡っているのだとおっしゃっております。いい得て妙と申しましょうか、日常からの目線にも、すさまじい光景が飛び込んでまいります。し かし、日常からの目線では、この断層の様相を捉えることもおぼつかないようにも思えます。 わたしたちが、今、渡りつつある、この断層は、一体いかなるものなのか。いや、渡りつつあるといいながら、わたしたちは、本当に、断層の向こう側にたど り着くべき方向を向いているのだろうか。そんな不安感に苛まれながらも、いま、大急ぎで自らの身辺を眺め回しているところでございます。そして、わたした ちが、いま、あがくように見出そうとしているものについて、考えをめぐらせてみるとき、それは、身体という軸を立ててみるとき、なにがしか、暗示的に途を 示していてくれるように思えるのです。 「複合醗酵農法」の柱のところで、「 「慣行農法」といわれるものが、化学肥料、農薬漬けの、人にも自然にも過酷なものである現状」などとかなり気楽に記しましたが、化学肥料を施肥した土壌が ボロボロになってしまい、もはや作物をつくることのできないものになってしまっている、ということが知見としてあったからでしたが、この土壌に起こってい ることは、いま、この社会に起こっていることを、まさに、象徴的に解説してくれているようには思えないでしょうか。 そうです。これまでのシステムは、自然にも人間にもあまりにも過酷で、それで行き詰ったのだと思ってみると、なにか理が見えてくるように思えないでしょ うか。だからこそ、足元のこの断層は、出現すべくして現れた。そして、この断層を渡り切るには、いかなる気構えが必要なのかも見えてくるように思えるので す。 わたしたちは、これから、何をするにも、なにを考えるにも、身体を差し入れて物事を斟酌すること、このことこそが、わたしたちの、道しるべだと思いま す。 行き詰りながら今なお続いているこの社会は、過剰なくらい「視覚偏重」の社会です。視覚野から視覚する当の主体を差し引いてしまうほど、視覚を徹底化さ せた社会でした。 そこには、あきらかに、眼差しの担い手たる身体が、削除されておりました。大量生産・大量消費が成り立ち得た理路も、このことによるものだったとすれ ば、わたしたちが目指すものの姿もほの見えてまいります。身体が感受する、こまやかさの一つひとつは、それぞれ、代替不可能な、一つひとつであり、その理 に基づいて研き込まれた一つひとつこそ、これから、多くの人に求められるもの、に違いないと思います。 以下、製作中 |
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